エストニアの一日

どこを疑うべきだったか

まあ冷静に考えればあらゆる点がおかしいのですが、前ページの内容は全て嘘です。情報はネットで2分調べればでてくるエストニアの記事から書いています。画像もその辺のフリー素材やパブリックドメインの物を拝借してきただけです。冷静に考えてみてください。オタクが朝からテラス席で朝食を食うと思いますか?平日からオシャレなバーに行くと思いますか?イキったサッカーゴールから映えのために写真を撮ると思いますか?

とはいえこれらは本質ではありません。これらの疑問は疑いの気持ちを持って読んでいるからこそ生まれるのであって、普通に読んでいたらそうは思わないはずです。普通はこんなところで嘘をつく理由もないですから…

けれど不自然な点もいくつかあります、現代のインターネットでは嘘に溢れているので、噓を嘘だと判断できる力を養っていきましょう。

それと同時に、折角リアルな経験から文章を書いても「なんか噓っぽいな~」と思われてしまうのはあまりにも悲しすぎます。全てにおいて正しいわけではないですが、臨場感に溢れたイキイキとした文章を書けるようになるということが、そう思われないようになるために重要であると思います。

まず仮定として、読者は著者の人となりや行動原理を一切知らないという前提にしましょう。その中で、上記の記事が日記としておかしい、疑わしい点は概ね下記になります。

  1. 内容に具体性がない
  2. 筆者のリアルタイムな感性の記述がない
  3. 写真や内容に著者の介入を感じない

順番に解説します。


内容に具体性がない

これはシンプルです。例えば朝食の部分で具体的な場所や実際に食べたものや価格についての内容がありません。”~した”ということのみであれば、想像だけでも容易に記事捏造が可能になってしまいます。ここに”~で~ユーロの~を食べた。”というような記載があれば、内容に具体性が生まれ、実際に体験した人間でないと”やや”書き得ないような内容にすることができるはずです。ただこの部分は現代のネットの情報密度であれば文章ベースではいくらでも具体性を持たせることが可能なので、写真や動画にそういったリアルタイム性のある情報(料理、メニュー)を含ませるとなお良い、はずです。


筆者のリアルタイムな感性の記述がない

ここも気になるところです。基本的に実際に行動したとすれば、○○したアクションの結果、自分はどうなったか、どう感じたかという反応が生まれるはずです。朝飯くったけどこれはこう美味かったとか、バスの同乗者が○○して困った、とか、バーの値段は適正でないと思う、とかそういうのです。こういった具体的な感想は”基本的”には実際に経験しないことには生まれ得ないので、追記することで文章の臨場感が生まれます。とはいえこの部分に関しては淡々と行動記録として述べていくスタイルの人も多いと思うので、一概にそうとも言えないかもしれませんね。


写真や内容に著者の介入を感じない

これはフリー素材を使っているからそれはそうなんですが、内容から筆者の存在を感じないというのもあります。これはその場で自分が写っている写真や映像があれば一発ですが、なかなかそれをアップするというのも難しい話です。とはいえ例えば、図書館で勉強しているなら自分のパソコンや、バーで飲んでるなら酒とそれを持つ手、といった空間に対する人間の介入を示す何か、が写りこんでいると内容の解像度が上がると思います。個人的に結構この差はあると感じていて、顔はあげなくともそういったものを移すと自分がそこにいた証明になると記録の面でも感じるのでおすすめです。

リアルタイム性のある例


ざっとこんな感じです。正直既に自分の性格が悪すぎて虚しいです。

では上記を考慮しながら、臨場感に溢れたリアルなエストニア生活を紹介します。

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